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渋谷、そして原宿

1989年頃に日本独自の進化を遂げた「ハードなスタイルのアメカジ」は「渋カジ」となり渋谷のセンター街には『チーマー』と呼ばれる若者がたむろするようになった。

この頃になるとリーバイスの501に紺ブレを着ていた若者は、よりハードなスタイルを好むようになりファッションにも変化が見られリーバイスの517にショットのライダース、レッドウイングのエンジニアブーツが『チーマー』たちの定番ファッションで髪の毛もサラサラの茶髪からロン毛と、硬派な印象へと変化していく。

そんな彼らの聖地といえば渋谷のアメカジショップ「バックドロップ」と「ジョーンズクロージング」で、そのいかつい風貌の店員の着こなしが彼らの手本で一着十数万もするバンソンの革ジャンや一本数万円もしたビンテージのリーバイスをこぞって買いに出掛けていた。

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『チーマー』現象のピークだった89?91年頃を過ぎると、元々ファッションの一部として属していただけの『チーマー』だった彼らだったがパー券売買や暴走族との抗争などの揉め事が大きく新聞やテレビ、雑誌に取り上げられる様になると取り締まりがきつくなり、センター街に警察監視カメラの取り付けが噂されるようになると解散するチームも増え、残ったチームはバブル崩壊後以降は『池袋ウエストゲートパーク』のような池袋や新宿を中心として台頭したカラーギャングなどというさらに特異な文化へと変化していった。

 

そろそろ話をファッションに戻すと、僕らの青春時代(1970年生まれなので1989年当時は19歳で当然センター街の洋服屋でバイトをしていた)渋谷にはアメリカ製のファッションが溢れていてリーバイスもバンソンもレッドウイングもパタゴニアも全てアメリカ製だった。

センター街からでてパルコの坂を下った右側にあったバックドロップからジョーンズクロージングに向かい、ガードをくぐった先は原宿でキャットストリートの裏路地にあったラブラドールから、今でいう裏原(当時はプロペラ通りと呼んでいた)のプロペラへ向かうのが定番コースで狭い店内にはアメリカ製の洋服がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、僕らのあこがれはいつだってアメリカの文化やファッションだった。

数年前とと変ったのはバンソンの革ジャンがスタジャンやパタゴニアのレトロカーディガンに変わりリーバイスの517がビンテージの501に変わったくらいだった。しかし90年代に入り若者のファッション文化が渋谷から原宿に徐々に移っていくとセンター街で遊ぶ時間より原宿にいる時間の方が長くなっていった。

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その後、原宿には空前の裏原ブランドブームがおとずれ「GOODENOUGH 」に代表される裏原系ショップには毎日大行列が出来き、Tシャツ一枚6000円という当時では破格の値段でも飛ぶように売れ品薄状態が続きいた。そしてついに1993年「A BATHING APE」が誕生すると日本のファッションシーンは一変することとなる。

今回は渋カジの繁栄から衰退、裏原ブームの前夜まで書きましたが評判がよろしければ続きをまたいつか書くかもしれません。

 

Tools-infinity Director 久木田善隆